3月30日の礼拝メッセージ
復活信仰=希望の源

私たちの信仰の土台

今日はイースターと言われる日です。主イエスが死からよみがえられた日です。もともとイースターというのは、異教の祭りだったと言われます。冬が終わり、春を喜ぶ祭りがそのまま、主イエスを信じてクリスチャンになった人たちによって、教会の中に取り入れられました。実に柔軟だったようです。イースターの祭りを祝っていた人たちが、クリスチャンになって、主イエスの復活を喜ぶ祭りとしました。

主イエスが死からよみがえられた、ということは、私たちクリスチャンの信仰にとって、大切なものです。私たちの信仰の太い幹です。土台です。希望の源となる信仰です。

14節には、大切な信仰告白が記されています。私たちは、イエスが死んで復活されたことを信じている。これをパウロは福音と言います。Tコリント15章において、主イエスの十字架の死と復活を福音と言い、この福音を信じることによって救われる、と言っています。

また、ローマ4:25では、キリストは私たちの罪のために死に、私たちが義とされるためによみがえられた、と言っています。

クリスチャンたちは、この福音を命がけで宣べ伝えました。それは、この福音にこそ救いがあり、命があり、望みがあると信じたからです。彼らは、そして私たちはこの復活の証人です。

目覚めの時が来る

私たちクリスチャンは、主イエスの復活を信じています。それは、信じる私たちもまた、死んでよみがえることを信じていることです。主イエスによって、私たちは死んでもよみがえるのです。

死んだ人のことについて、無知でいてほしくない、とパウロは言います。それは、第一に、私たちもやがて死ぬからです。人の死に向き合う時、私たちは自分もまた死ぬ者であることを強く覚えます。聖書は、その死を眠りと言います。

それは、やがて目覚めるからです。私たちクリスチャンは、そのことを信じています。主イエスが復活されたように、私たちも主イエスにあって、よみがえるのです。

第二に、それゆえに、望みをなくして悲しみに沈むことがないためです。繰り返しますが、死を「眠り」と言っているのは、やがて目覚めることを信じているからです。希望があるからです。

主イエスが私たちに代わって死んで下さった。そしてよみがえって下さった。このことによって、死の意味が変わったのです。もはや死はなんの力も持っていません。死は滅ぼされたのです。

私たちが主イエスを信じ、その復活を信じるなら、望みを持って生きることができます。私たちはよみがえります。そしていつまでも主イエスと共にいることになります。

労苦は無駄にならない

Tコリント15:58には、だから堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。あなたがたの労苦が無駄にならないことを知っているのだから、とあります。

今日の個所の18節にも、これらの言葉によって互いに励まし合いなさいと勧められています。互いに慰め、励まし合うのは、復活の信仰によってです。その意味では、復活信仰こそ、教会を建て上げる信仰と言えます。

そのためには労苦することも知っています。しかし、この労苦は主に覚えられています。決して無駄にはなりません。

労苦するということは、忍耐を必要とするということです。主のわざに励むということは、主のわざを担うことです。主のわざを担うというのは、何か特別なことをするのではありません。復活の希望を持って生きることによります。ここに忍耐が要るのです。そしてこの忍耐を支えるのが、復活信仰なのです。

テサロニケのクリスチャンたちは、この信仰と希望に生きていた、とパウロは書きます。テサロニケの教会の人たちも私たちと同じように、苦しみの中、試練の中にいる人もいたと思います。未来に希望を持てず、不安を抱えていた人もいたでしょう。

それでも、復活の信仰に生きているあなたがたが、望みを失うことなく生きていることをうれしく思う、とパウロは言うのです。そしてそのまま、神の喜ばれる歩みをしてほしい、と4章のはじめで勧めるのです。

望みの源

私たちの中にも今、苦しみや試練の中で労苦している人がいると思います。その人たちを私たちは、復活の信仰によって励まし、慰めなければなりません。あなたの労苦は決して無駄にはならない、と。

教会の奉仕に携わっていないと、主のわざを担っていないかのように思う人がいるとしたら、それは間違いです。そうではありません。私たちが復活の信仰によって生きているなら、それはそのまま、主のわざを担っていることなのです。

苦しみや試練の中で、労苦しながらも希望を失わないでいるのは、復活の信仰を持っているからです。主にあって、この労苦は決して無駄にはならない、と信じているからです。

私たちには、望みがあります。やがて主イエスが再臨される時、私たちの労苦は報われます。そして満たされます。この望みの源は、主イエスの復活を信じ、それを信じる私たちも、復活させられることを信じる信仰にあります。

苦難の中で、試練の中でなお望みを失うことなく、忍耐しつつ、そして喜びつつ生きることができる。これこそ復活を信じる信仰の力です。復活信仰の力です。信じる私たちには、この復活の力、命が与えられています。この命を生きる時、私たちは復活の証人として生きることができるのです。

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