3月16日の礼拝メッセージ
主イエスの十字架

主イエスの十字架を見つめる

クリスチャンの特徴は、いつも喜んでいることです。辛く厳しい現実の中で、愚痴の一つや二つもこぼしたくなるような中にいても、喜んでいるのがクリスチャンです。

水野源三という方がいます。小学生の時に脳性マヒになり、言葉を話すことができなくなりました。でも、主イエスを信じ、クリスチャンになりました。瞬きの詩人、と言われています。その方の詩に「何がそんなに」という詩があります。何がそんなにうれしいのか、それは神様に愛されているから、と詠います。

神に愛されている、ということを私たちは主イエスによって知ります。今日、私たちはこの神の愛を見ます。十字架にかかられた主イエスを見つめることによってです。

私たちクリスチャンは、いつも十字架に架けられた主イエスを見ています。だから、いつも喜んでいることができるのです。十字架の主イエスをいつも目の前に置き、見つめ続けて生きる。それがクリスチャンです。

今週は受難週です。いつもよりもっと強く、十字架の主イエスを見つめたいと思います。

私の罪が主イエスを十字架に

それから彼らはイエスを十字架につけた、と24節にあります。短い文章ですが、私たちの大切な信仰の告白の一つがここにあります。私たちは、十字架にかけられたイエスを、救い主と信じています。

この「彼ら」という所に「私」と入れ替えることができると思います。それは、私たち一人一人の罪のために主イエスは十字架にかけられたからです。つまり、私たちの罪、この私の罪が、主イエスを十字架につけたのです。このことがわからないと、十字架の意味の大きさがわかりません。神の愛の大きさがわかりません。

私たちクリスチャンは、いつも十字架の主イエスを目の前に置きます。それは、この十字架に現わされた神の愛の大きさを見つめ、覚えるためです。

私たちは、十字架の主イエスを見つめ続けることによって、神の愛を知り、どんな時でも喜びにあふれて生きることができるのです。

神の愛は、十字架に現わされています。主イエスが私たちの罪を背負って十字架にかかられました。これによって私たちの罪は赦されるのです。

神の愛を見つめる

私たちが十字架の主イエスを見つめながら生きる、ということは、神の愛を見つめ続けることです。その時、苦しみや悲しみは、喜びと平安に変えられるのです。

水野源三さんの詩に「悲しみよ」という詩があります。悲しみがあったから、それが強かったから、私はこの世にはない大きな喜び、変わらない平安がある主イエスの御許に導かれたのだ、と詠っています。

十字架の主イエスを見つめ続けることによって、神の愛を知ります。神の愛の中に入り、その中で生きることができます。神の愛の中で生きる時、悲しみや苦しみもまた、私たちを神の平安の中に導くものとなるのです。

主イエスの叫びを聞き続ける

十字架の主イエスを見つめるということは、十字架の上で叫ばれた主イエスの叫びを聞き続ける、ということでもあります。

この叫びは、私たちの身代わりの叫びです。私たちの罪のためです。十字架は、この私のための苦しみ、死であります。

主イエスの苦しみ、そしてこの叫びは、神に見捨てられるという苦しみであり、叫びです。私たちの苦しみをその身に受け止め、私たちの苦しみの一番深い所で、主イエスは苦しまれたのです。そして叫ばれたのです。

私たちは、自分の苦しみをこれほどには苦しみません。叫びもしません。それが私たちの罪です。私たちの心は、罪のために鈍くなっています。そのために、神に見捨てられること、神に裁かれるということの恐ろしさが分からなくなっています。

ですから、少しでも苦しいことがあったり、気に入らないことがあったりすると、神の方を見なくなります。祈らなくなります。主イエスは、そのような私たちの罪を背負い、私たち罪人の一人となって、この祈りをなさったのです。

わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのか。

主イエスは、神に見捨てられる恐ろしさを覚えつつ、その瞬間にも神に祈っているのです。神に見捨てられるような罪などないお方が、私たちと同じ罪人の一人となって、私たちに代わってこの叫びを上げられたのです。

そして、私たちに代わって神に見捨てられたのです。それゆえに、私たちは神に見捨てられることはないのです。私たちはこの主イエスをいつも見つめるのです。この叫びを、この祈りを聞き続けるのです。

十字架を負って主イエスに従う

最後に、クレネ人シモンに目を留めたいと思います。彼は、通りすがりの人だったのに、主イエスの十字架を背負う人となりました。

主イエスは「私に従いたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を背負って従ってきなさい」と言われました。シモンは、この出来事の後、主イエスのこの御言葉を聞いたことでしょう。そして、その御言葉を一番はじめに体験したことを知ったでしょう。教会も、シモンにその姿を見ていったのです。

シモンは十字架の重さを忘れることはなかったと思います。それは自分の罪の重さでした。そしてそれは、神の愛の大きさでもありました。

十字架を負って主イエスに従う時、私たちは、自分の罪を知り、そして、私たちを愛して下さった神の愛の大きさ知ります。その広さ、長さ、高さ、深さを知るのです。

十字架を目の前に置き、見つめ続けるということは、十字架を負って主イエスに従うことでもあるのです。

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