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3月9日の礼拝メッセージ
主イエスの苦しみ
主イエスをしっかりと見る今日私たちは、主イエスのゲッセマネでの祈りの姿を見ます。この姿を多くの画家が絵にしています。彼らはここに記されている主イエスの御姿に心を動かされ、信仰の告白として絵にしたと思います。私たちはそのような絵を見て感動し、主イエスの御姿を思い起こします。 今日の個所から、私たちは主イエスの御姿をしっかりと見ていきたいと思います。皆さんはどのような主イエスのお姿を描くことができるでしょうか。今は、レントと言われる時です。主イエスの受難を深く思う時です。今日は、ここから主イエスの御苦しみを強く覚えたいと思います。 私たちクリスチャンは、いつも主イエスの十字架の前に自分を置き、主イエスをしっかりと見つめます。ゲッセマネで祈られた主イエスをしっかりと見つめる者です。見続けることができなかった弟子たちの様にではなく、目を覚まして主イエスを見ます。 福音書から主イエスを見る時、注意しなければならないことは、イエスは何でもできる神の子、スーパーマンとして見てしまうことです。イエス・キリストは、真の神であり、真の人です。主イエスは、真の人としてここで苦しみ、悩み、恐れておられるのです。 人となったけれどもそれは、しばしの間で、やがて甦ってハッピーエンドを迎える、という見方をするなら、ここで主イエスが苦しまれた姿を正しく見ることはできません。 私たちにはいろいろな苦しみがあります。主イエスの御苦しみの姿を正しく見ることができないと、私たちの苦しみからの救いを知ることはできません。しっかりと主イエスの御姿を見ていきましょう。 真の人としての悩み、苦しみゲッセマネという所に主イエスは、祈るために来られました。この時、主イエスは深く恐れ、もだえ始められた、と記されています。もだえる、ということは元々、悩む、という意味の言葉です。口語訳聖書では「悩み始めた」と訳されています。主イエスが悩まれたのです。ここにこそ、真に人となられた御姿があります。人として本当に悩まれたのです。 深く恐れ、悩まれたのは、死を前にしたからです。その死とは、神の裁きです。主イエスは神に裁かれることを恐れ、身もだえするほどに悩まれたのです。罪を裁く神の裁きは、それほど恐ろしいのです。 主イエスは、御自分に罪があったから悩まれたのではありません。私たちの罪のゆえに、その罪を担って恐れ、悩まれたのです。神の愛が明らかに現わされるために、十字架にかかって死ぬほかはないのか、ということで悩み、苦しまれたのです。そして神の裁きを私たちに代わって恐れられたのです。 ここにマルコが書き記し、証ししている「神の子、イエス・キリスト」がおられるのです。私たちはゲッセマネで悩み苦しむイエスに、キリストの姿を見ることができるでしょうか。信じきることができるでしょうか。 私たちはここにこそ、救い主としてのイエス・キリストの姿を見ます。それは、私たちの罪の悲しみを一身に背負い、苦しみ悩み、恐れている姿です。 主イエスの祈りに応える私たちはこの主イエスを前にして、何を思うでしょうか。繰り返しますが、主イエスは自分の罪を悲しんだのではありません。私たちの罪を深く悲しみ、その裁きを代わって受けることを深く恐れ、悩まれたのです。 私たちはこれほどに、自分の罪を悲しみ、悩み、恐れるでしょうか。クリスチャンは罪に敏感です。少なくともそう自分は思っています。しかし、その罪の大きさを本当に知っているでしょうか。主イエスは、私たちの罪を、私たち以上に深く悲しみ、悩まれたのです。 これが主イエスのゲッセマネでの悩み、苦しみです。このように主イエスが私たちの罪のために悩み、悲しみ、苦しんで下さったからこそ、担って下さったからこそ、私たちの罪は赦されたのです。私たちの祈りが神に聞き届けられるのは、主イエスのこの祈りがあったからです。 私たちクリスチャンは、この主イエスの祈りを受け止め、この祈りに応えて生きていきます。3人の弟子たちは、主イエスが恐れ、身もだえするほどに悩まれた姿を見続けることができず、眠ってしまいました。主イエスはその弟子たちに、目を覚まして祈り続けなさい、と言われました。 自分のためだけに祈るのではありません。主イエスの祈りの姿を見続けるということは、それに応え、それに従うということです。これが私たちの信仰の姿勢です。主イエスの祈りを受け止め、その祈りに応え、隣人のために祈るのです。 私たちは自分の罪を主イエスほどに悩まないことが多くあります。それは、同じほどに隣人(友人・知人・家族)の罪のために祈らないということです。あの人が神の御手を知らず、信じることができないで苦しんでいる、ということを私たちはどれほど悲しみ、祈っているでしょうか。 人の罪を裁くことはしても、人の罪のために祈ることはあまりしないとするなら、私たちは主イエスの御苦しみの姿を見続けているのではありません。弟子たちのように眠っているのです。 もし私たちが、キリストの苦しみに与るなら、復活の力をも受けることができます。希望に生きることができます。祈りは、キリストの苦しみに与ることです。 主イエスは、私の願いではなく、御心がなされますように、と祈りました。この祈りこそ、心が燃えている祈りです。心が、神の御心のなることを、神の御業を待ち望み、それに備えることです。主イエスは、神の御心である十字架に向かって立ち上がりました。 主イエスの祈りを受け止め、祈りに応え、主イエスの苦しみに与って行きたいものです。目を覚まして祈り続けたいものです。 |