2月3日の礼拝メッセージ
強くなるために

最後の勧めの前に

今日の箇所は「最後に言う」という言葉で始まっています。パウロがエペソの教会に勧める最後の言葉です。

これまでに私たちは、教会を建て上げるという主題でエペソ書を読んできました。皆さんはこの間に何度もこの手紙を読んだことと思います。読んでいる時に、必ずしも「教会を建て上げる」という視点だけで読んだのではないと思います。自分の置かれている状況、環境の中、つまり生活の中で読んだと思います。

生活の中で読んだ、ということは、信仰の戦いの中で読んだ、ということです。今日の視点はここにあります。私たちクリスチャンは、この世にあって信仰の戦いをしているのです。

悪魔の策略に対抗して立つために、と今日の箇所には記されてあります。私たちがしている信仰の戦いとは何なのか、また、誰と戦っているのかがここに語られています。

別の視点から

このエペソ書は、獄中書簡と言われます。パウロが福音を伝えたために捕らえられ、その獄の中から書いたものである、と言われます。いつ解放されるか分からない中で、いつ命が奪われるのか分からない中でこの手紙が書かれたのです。その意味ではパウロの遺言と言っても良いと思う手紙です。

しかし、そのような手紙であるのに、悲壮感が全くありません。一つ一つの言葉に希望が溢れています。喜びが溢れています。

その理由は、私たちクリスチャンは、主にあって天にあるすべての霊的祝福で満たされているからです。このことを信じているからです。神の豊かな恵みと愛によって私たちは救われ、永遠の命が与えられ、神の国を受け継ぐ約束が与えられています。この手紙は、獄中にありながらも、溢れるほどの喜びで書かれた手紙です。

このことをパウロは、キリストから教えられ、キリストから学んだのです。そして、私たちにもそのことを教えるのです。その最後の勧めを読んでいきます。

強くあること

主にあって、その偉大な力によって強められなさい、と言います。強くあれ、という勧めです。強靭な精神力、根性を持て、と言っているのではありません。ここの原文は受動態です。自分で強くなれ、というのではなく、強くされなさい、ということです。

強くあれ、という勧めにヨシュアに語りかけられた神の御言葉を思い起こします。「強くあれ、雄々しくあれ、わたしがあなたといつも共にいる、恐れてはならない、おののいてはならない」という御言葉です。

申命記ではモーセがこの言葉をヨシュアに語っています。それは、モーセ自身も経験したことだったからです。神が共におられるから、恐れず、おののかないでイスラエルの民を導くことができたのです。

強く、雄々しくあることができたのは、神が共におられることを信じたからです。主にあって、キリストに結びついて、とはこのことです。

偉大な力によって

偉大な力によって強くされなさい、と勧められます。モーセもヨシュアも神の偉大な力に頼りました。誰よりも優れた人物だったから、彼らはイスラエルの指導者になれたのではありません。ヨシュアの言動を見ると、自分たちの能力でカナンの地を攻め取ることができるとは思っていないことが分かります。

ヨシュアとカレブの勇敢な言葉は、神への信頼から生まれたものです。神の偉大な力に頼っていたからです。

ダビデもまたそうでした。大男ゴリアテを前にして、彼は神の御名によって戦いました。彼らは、自分たちの可能性、能力から考えたのではなく、神の偉大な力を信じたのです。

私たちも、このヨシュアやダビデと同じ信仰を持っています。神の偉大な力を信じる信仰です。

パウロは、この力を知ることができるようにと1:17〜19で祈っています。信じる者の内に働く神の偉大な力を知ることができるように。私たちはこの力によって生かされているのです。この力こそ、天にある霊的祝福なのです。

戦いに勝利するために

このように強くされるのは、悪魔の策略に対抗して立つためなのです。悪魔は、私たちを神から引き離そうと、いろいろなことをしてきます。暗闇の支配者、と言われるほど、邪悪で力ある者です。私たちの信仰の戦いは、この悪魔との戦いでもあるのです。

私たちクリスチャンは、天にあるすべての霊的祝福で満たされていますが、この世にあって悪魔の攻撃を受けます。この世にあって信仰によって生きる時、私たちは、この世の闇の支配者と言われる悪魔との戦いをしているのです。

このようなことは今に始まったことではありません。この邪悪な時代の中で、それに対抗して堅く立って生きるために、神の武具を身に付けなさい、と勧められるのです。

その武具とは、一言で言うなら、信仰です。偉大な神の力を信じる信仰です。次週は、次にあげられている神の武具について見ていきます。

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